歴史
- 概要
- 2017(平成29)年
- 2008(平成20)年
- 2006(平成18)年
- 1996(平成8)年
- 1986(昭和61)年
- 1985(昭和60)年
- 1976(昭和51)年
- 1970(昭和45)年
- 1966(昭和41)年
- 1959(昭和34)年
- 1956(昭和31)年
- 1948(昭和23)年
- 明治~昭和初期
概要
- 昭和初期まで尾浜は田んぼだらけの田園地帯だったが、1933(昭和8)年の産業道路開通に合わせて、尾浜商店街の原形となる道路が作られた。
- 戦前から何軒かの店が並んでいたらしい。
- かつては西側が「尾浜商店街」、東側が「新尾浜商店街」だった。新尾浜商店街の南に「名月市場」、北に「第二名月市場」が存在した。現在は名月市場・第二名月市場は消滅し、全てまとめて「尾浜商店街」となっている。
- 資料が少なくてよく分からないので、知っている人があれば何か書いてください。
2017(平成29)年
- 上記の地図には営業していない店舗も書かれています。
- 空き店舗が住宅に建て替えられつつあり。
2008(平成20)年
- 上記の略図は当時の住宅地図から作成。
2006(平成18)年
1996(平成8)年
- 上記の略図は当時の住宅地図から作成。
1986(昭和61)年
- 上記の略図は当時の住宅地図から作成。
- 当時の航空写真。出典:尼崎市立明和小学校『創立三十周年記念誌 名和』(1986)p.51
1985(昭和60)年
- 尼崎市産業労働局産業部産業振興課によるレポート「杭瀬地区、尾浜地区、大島地区商業及び先端技術系産業の振興策について」において、当時の尾浜商店街の状況と課題がまとめられている。
1976(昭和51)年
- 上記の略図は当時の住宅地図から作成。
- 文具、歯科、寿司、電機、化粧品、パン、米穀、衣料品の店が多い。
- この時期までの住宅地図は手書きなので見づらい。しかも尾浜商店街は名月市場を境に東が小田地区・西が立花地区のため地図も別々になっていて余計に解りにくい。
- 当時の航空写真。出典:尼崎市立明和小学校『創立三十周年記念誌 名和』(1986)p.51
1970(昭和45)年
- 上記の略図は当時の住宅地図から作成。
- この年、住居表示制度の施行により、尾浜商店街周辺は尼崎市尾浜町2丁目・3丁目となる。
1966(昭和41)年
- 上記の略図は当時の住宅地図から作成。
- 当時の航空写真。出典:尼崎市立明和小学校『創立三十周年記念誌 名和』(1986)p.50
1959(昭和34)年
- 上記の略図は当時の住宅地図から作成。
- この年、名月橋が架け替えられている。
1956(昭和31)年
- 上記の略図は当時の住宅地図から作成。
- 尾浜郵便局、笹原電機、植田理髪、名月温泉、井上歯科、杉安病院、中西たばこ、日之出屋クリーニングなど、61年後の2017年現在も営業中の施設・店舗が存在している。
- 商店街沿いにも工場があった。
- 瀬良製工舎は1923(大正12)年創業の金属加工会社。現在の株式会社セラである。
- 長瀬産業尼崎工場は1939(昭和14)年に稼働開始。染色糊抜用酵素剤、写真フィルムを製造。1976(昭和51)年に京都府福知山市に移転 。移転に際し、跡地に長瀬記念福祉会館という地区会館を建築した。現在のナガセケムテックス株式会社である。
- 関西スレートは石綿セメント円筒の製造、販売会社。1935(昭和10)年に尾浜に本社・工場を設置。一度戦災で焼失したが、1946(昭和21)年に再建。1973(昭和48)年に本社・工場ともに加古川へ移転。2001(平成13)年に会社解散。アスベストによる健康被害が問題となっている。参考
1948(昭和23)年
- 当時の航空写真。出典:尼崎市立明和小学校『創立三十周年記念誌 名和』(1986)p.50
明治~昭和初期
- 1970(昭和45)年の住居表示制度施行まで、尾浜商店街は以下の小字にまたがる形で存在していた。
- 小田村大字久々知字奈久(兵庫県川辺郡小田村は1936年4月1日、兵庫県尼崎市に合併)
- 立花村大字尾浜字ナギウ(兵庫県川辺郡立花村は1942年2月11日、兵庫県尼崎市に合併)
- 立花村大字尾浜字竹原
- 立花村大字尾浜字松ノ中
- 立花村大字尾浜字東浦
- 尾浜商店街(の元になる道路)ができる以前は、ほとんど田んぼだった。
- 産業道路の完成に合わせ、地主たちが土地と労力を提供しあって、尾浜商店街の原形となる道路を作った。出典:名和小学校創立二十周年記念事業実行委員会記念誌部(編)『名和20年』(名和小学校創立二十周年記念事業実行委員会,1976)p.127
- 産業道路(主要地方道尼崎・池田線)は1933(昭和8)年7月完成。
- 尾浜地区は1945(昭和20)年6月15日、8月6日、8月10日の3回にわたり米軍による空襲を受け、焼夷弾により焼け野原になった。参考資料:名和小学校創立二十周年記念事業実行委員会記念誌部(編)『名和20年』(名和小学校創立二十周年記念事業実行委員会,1976)p.115
- ↑1937(昭和12)年~1939(昭和14)年の地図には、産業道路から名月橋に至る商店街の元となった道が見られる。「立花村土地宝典」および「尼崎市土地宝典」より
- ↑1932(昭和7)年の地図。現在の商店街にあたる地域は全て田んぼ。産業道路もまだない。出典:今昔マップon the web
- ↑1909(明治42)年の地図。現在の商店街にあたる地域は全て田んぼ。出典:今昔マップon the web
- 最終更新:2019-03-17 17:54:50